知識の海を泳ぐ回遊魚

(人間マグロ論)

私は最近「人間は知識の海を泳ぐマグロのようなものだ」という結論に達した。

勉強は何かに役立てるためにするものというのが一般的な考え方だとすると、
役に立つことがないときは勉強しないということになる。
勉強といったが、学習一般というところまで広げて考えてみると、
人が学ぶということは必ずしも何かの役に立つからではないことがわかってくる。

定年退職後に料理や趣味などの教室に通い、新しく何かを学び始める人が
最近はかなりの数に上るという。
私の知り合いでも、70歳を過ぎて行政書士の勉強を始めた老人がおり、
「今更資格を取っても使えないでしょうし、取れるまで何年かかりますよ」というと
「別にかまわない、何か勉強したくて始めたが、少し難しいものに挑戦したくなっただけだから」
との答えが返ってきた。

人間は知的な刺激がないとつまらないと感じ、マンネリズムという「緩慢な死」に追いやられる生き物なんだなあ。
ちょうどマグロが海の中をものすごい勢いで泳ぎ回っていないと死んでしまうように
人間というマグロは知識や知恵、新しい技術、新しい刺激の中を泳ぎ回らないと
死んでしまう魚なのかもしれない。代表自画

ということは勉強は何かの手段ではなく、人間が生きていくことそのものだということになる。

私個人のことを申し上げると、1日の中に本を読む時間が全くないとものすごいストレスを感じる。
逆に一日の終わりに活字をながめているとなぜかホッとするという活字中毒である。
たぶんお仲間もかなりの数いるのではないかと、ひそかに思っているのだが。

学び続けることが生きることならば、その学び方は合理的ですっきりしたもののほうが良いのは
言うまでもないことだ。それなのに小さいころから勉強というものは嫌なモノ・強制されるモノという
刷り込みをされてしまうのは最も避けなければならないことのはずだ。

世の教育にたずさわる人の無知と怠惰のために子どもたちが犠牲になっている。
それは政治的レベル・制度的レベル・集団的レベル・個人的レベルを問わず同じである。

教育立国を謳った日本の教育はとんでもない危機を迎えていると感じるのは
私だけではないはずである。