吉祥寺の塾(歩楽來)が提案する東京大学受験用の練習問題

歩楽來オリジナルの東京大学受験のための練習問題をお見せします。

 

本文の作成も、設問もすべて歩楽來オリジナルです。また、本文内容は小さいお子さんをお持ちの方にも、読み物として有益な内容となっておりますので、大学受験生以外の親御ざまもお読みください。

吉祥寺周辺の塾などでもこのような作問はほとんどなされていないと思いますので、ぜひご参考ください。

 

「子育ては子ども任せ」(東大入試型 模擬問題 🈩 評論)

 

子どもと接する仕事を長くしていると、最近の子どもたちの生活の変化と、それに伴う能力の変化に敏感にならざるを得ない。生活の変化とは一言でいえば「生活スケジュールの過密化」であり、能力の変化というのは「自己判断の能力の低下」と「その先を想像する能力の低下」であり、総じて受け身になっているということである。

現代の子どもたちのこのような傾向は、現在の社会環境と家庭環境を考えれば、ある意味当然のことであり、親や教師たちは「自ら主体的に取り組む子ども」を願わざるを得ないのだ。しかしながら、(ァ)願っている本人が自らの矛盾に気が付いていないというのが、子どもの能力低下に拍車をかけていることを指摘せねばなるまい。

つまり、放課後に何もスケジュールが決まっていないと子どもをどう育てていいかわからないという強迫観念に追い立てられるように、お稽古ごとや塾などの予定を詰め込んだ超過密スケジュールを組んでいるのは親自身であり、140年以上も前から続く「一斉授業」一辺倒で指導を行っている学校という体制が、指示待ち・受け身のトレーニングジムになってしまっていることに教師自身が気づいていないということだ。

国を挙げて「アクティブ・ラーニング」という言葉がもてはやされ、さまざまな取り組みが紹介されているのは、現代の子どもの受動化に歯止めをかけ、能動的に学ぶ子どもたちを生み出そうという取り組みとして評価できる。しかし、根本的なところにメスを入れず、対処療法の繰り返しになってはいまいか。私は危惧を感じている。

もう一度ここで、子どもたちの受動化の生み出される構造を整理し、変革のための本質的なアプローチを探ってみたい。

分析の対象となるレベルは、第1に社会であり、第2に家庭であり、第3に学校である。

社会レベルでの問題の中心は「共同体の崩壊に伴う個別家族化・家族の崩壊による個人化」を土台とせざるを得ないにもかかわらず、個人の社会にアクセスする能力がどんどん貧困化しているということだ。この社会的リテラシーを持たない個人は社会に積極的にかかわることはできず、むしろ引きこもって最新機器の中の「箱庭」に入り浸るという選択をせざるを得なくなる。ここでいうところの「社会的リテラシー」とは挨拶であり、思い遣りを生み出すところの想像力であり、社会的基本ルールの理解を指しているが、例えば挨拶ということ一つ取り上げても「ありがとう」や「いただきます」などの言葉さえ満足に発することをしない子どもが増えているというのが私の実感だ。逆に言えばそれらの社会的リテラシーがなくても、衣食住に困らないシステムが社会的に成立し、その中でコミュニケーションなしの日常生活を送ることが可能になっていると言えるだろう。

家庭レベルでは先にも触れたように、子育ての知恵を伝えてくれる共同体的人間関係から解き放たれた個別家族の中の親は、子育ての不安に耐え切れず、子どもの生活時間の中に予定をぎっしりと埋めてしまうことで、子どもが自由に発想したり、持て余した時間を楽しくするための工夫をする機会を奪ってしまっているということだ。仮に時間があったとしても、子どもの遊びを生むための仲間と場所が不足していることも従来から指摘されている通りで、自由で自主的な遊びの実現は困難な状況にある。また、少子化した家庭においては、親は個々の子どもを見るに十分な時間があり、そのために(ィ)自分の子どもだけにフォーカスする視野狭窄が起こりやすい。そして、家庭の中で躾けられるべき「社会的リテラシー」となる挨拶や他者に対する想像力よりは、テストの点数や習い事の級位など目に見えやすい価値に飛びつき、そのことをもって子育てをしていると思い込もうとする。ところがそういう子育ては、いわば(ゥ)「目に見える髪の毛のスタイルや服装ばかり気にしているうちに、基本的な生活の要となる足腰が立たなくなっていた」という子どもたちを生み出しているのではないか。

子育てはこれまでの人類史上、親子の関係だけで完結したことは1度もないはずである。いうまでもなく人間は社会的な生き物であり、社会を構成して生きるというのは人間の普遍的本質だからである。昔の「名づけの親」という制度を例にとるまでもなく、人間は自分と社会的にかかわりのある「他人様」の手を借りて、やっと自分の子どもを育てることができたのだ。「他人様」はその社会のルールを厳しく教え、甘えを許さず、また、時には手本となり、親と決裂した時の受け皿ともなって、親子という緊密な関係ではない中間的な距離感の中でこれらの役割を果たしてくれる。本来、子どものために親ができることは「社会的リテラシー」を厳しく躾けること以外には、信頼できる「他人様」という社会関係を広げ、お互いさまで子育てしあう環境を作ることしかないはずなのだ。

第3のレベルとして学校について考えてみよう。

明治に発布された学制は主に共通語の理解を軸に据えた、従順な兵士と工場労働者の創出という目的を持っていた。それは当然ながら「一斉授業」という形式が内容にふさわしく設置されたし、むしろそうであるべきものとして教育内容の実現のためによく機能しただろう。戦後には教育内容の大きな見直しがなされ、民主主義教育の体が整えられたが、形式は相変わらず「一斉授業」を(ぁ)ケンジし、そこにメスを入れることは一顧だに与えられなかった。近年になり、やっと「一斉授業」形式以外のスタイルが検討されるようになった。が、ここで確認しておけねばならないのは次の点だ。

つまり、近年の教育改革の動機となっているものは、子どもたちがグローバル化、価値観の多様化という新しい時代にふさわしい能力を身に着け、自立していくためという建前もさることながら、「一斉授業」自体が成立しなくなってきているということにある。

戦前、戦後の過去において、なぜ一斉授業が成立しえたのか。それは「人の話を聞く」「相手がなにを伝えようとしているのか想像する」といった、コミュニケーションにかかわる社会的リテラシーが身についた子どもたちを相手にしてきたからだ。

既にみたように、社会、家庭において社会的リテラシーの貧困化が進行している今日において、一斉に話を聞かせて何かを伝えるという活動自体が無力化してきていることをやっと自覚し始めたというべきであろう。

「髪の毛や服装を気にしているうちに足腰が立たなくなっていた」のは学校教育も同じだったのだ。本来教育における「足腰」は、いうまでもなく「学力」であろう。また、「学力」という言葉は「学ぶ力」であり、「学ぶ」という言葉にはもともと「自分からアクションを起こして」ということが当然ながら含意されている。古い例えで恐縮だが、(ェ)馬を水辺まで連れて行っても、水を飲むかどうかは馬次第なのである。

この観点から見るとき、昨今(ぃ)喧しい「アクティブ・ラーニング」なるものが、「髪の毛や服装」のスタイルに(ぅ)ダしていないか。というのが、私の(ぇ)ケネンである。

ICTの利用や新しい学習の仕組みを言う前に、誠意ある現場の教師たちは一人一人の生徒・児童の声に耳を傾け、授業で足りなければ補習をし、それでも足りなければ個別に面倒を見るという涙ぐましい努力を日々続けている。何ら新しい発想も仕組みも教材もなくて実現できることを、まずは制度化すべきではないのか。授業はなぜ「一斉」でなくてはならないのか。「一斉」でなければ授業とは呼べないのだろうか。この150年に渡る迷信が、子どもたちと現場の心ある教師たちをこれだけ苦しめているという事実に目を向けることが、なによりも先であろう。

そして、学校が「子どもたちの学習の場」(あえて教育の場という言葉は使わない)として再生するためには、社会的リテラシーの弱体化した子どもたちを前提にした、個別的な指導システムの制度化と、子どもたちが学びたくなる、人的・物理的環境の整備ということが問題になるだろう。子どもたちが学びたくなる環境というのは言うは易しだが、そう簡単なことではない。少なくとも3つの側面から検討される必要がある。一つにはクラスという制度の見直し、二つ目は教師の指導力の問題、三つ目が授業という概念の再定義である。子どもたちが学びたくなる場面に必要なものは知的刺激であり、共に学ぶ仲間(先輩・後輩も含む)であろう。そして何よりも学びたくなった時の「自由」が担保されなければ、その意欲も露のようにはかなく消えてしまうということに最大の注意を払わなければ能動的に学ぶ子どもたちは生まれてこない。

クラスという制度から見れば、連絡事項などのホームルームは100人の生徒でも支障はないだろう。しかし、互いを知り合い、認め合い、支えあう(高めあう)そういう学ぶ仲間としての適性人数は何人くらいがよいのだろうか?生徒の年齢にもよるだろうが、在日米軍基地の学校で実施されているような15人程度の集団が適しているのではないだろうか。やりたい科目やテーマに沿って生徒が参加し、必要なレクチャーがあったうえで、好きな教材で自学自習し、時には教えあい議論しあう。そういう学びの時間と空間としてクラスが再認識される必要がある。また、個々の生徒が自学自習するとき、それをサポートする教師に十分な学力と指導力があり、子どもたちはそれへの信頼に支えられて学びを加速させる。そういう空間を生みだせる教師の成長が必要になっている。そしてその自学自習の時間と空間を指して「授業」と呼んでよいことにするべきだろう。

これらの提案はいささか空想的な感があると思われている方もいらっしゃるかもしれない。15人の学ぶ共同体としてのクラス編成は人件費や行政へのアピールが必要となり、確かに手間がかかることだろう。しかし、「授業」の中心に自学自習を据えて、生徒の自主性に任せて学んでもらうことは、生徒・親・教師を含めた私たちの意識を変えるだけで実行可能だ。自由な自学自習を学校制度の中心部分に組み込むことができれば、さしあたってクラス人数はその倍の30名でも、教師の力量アップとTA(ティーチングアシスタント)を入れるなどの工夫で何とかなるかもしれない。新たな制度が生まれようとするときの苦しみは当然のこととして、大事なことは、要するに子どもたちが自由に自ら学ぶということを(ぉ)ジャマしない環境をつくることに尽きるのだ。

この文脈上に位置づく「アクティブ・ラーニング」なり、ICTの活用であるならば、それは素晴らしい効果を生むものとして大いに活用すべきであり、着せ替え可能な季節のお洋服で終わることはないであろう。

この意味において(ォ)家庭では「子育ては子ども任せ」であり、学校では「教育は生徒任せ」なのだというのが私の結論である。

 

傍線部(ア)願っている本人が自らの矛盾に気が付いていない とあるが、どういうことか。わかりやすく説明しなさい。

 

傍線部(イ)自分の子どもだけにフォーカスする視野狭窄 とあるが、どういうことか具体的に説明しなさい。

 

傍線部(ウ)「目に見える髪の毛のスタイルや服装ばかり気にしているうちに、基本的な生活の要となる足腰が立たなくなっていた」とあるが、具体的にはどういうことか、具体的に説明しなさい。

 

傍線部(エ)馬を水辺まで連れて行っても、水を飲むかどうかは馬次第なのである。とありますが、具体的にはどういうことですか。説明しなさい。

 

傍線部(オ)家庭では「子育ては子ども任せ」であり、学校では「学習は生徒任せ」とありますが、本文全体の趣旨を踏まえて、どういうことか説明しなさい。(100字以上120文字以内で、句読点も1字に数える。)

 

傍線部(あ)~(お)の語句について、漢字は読み仮名を、カタカナは漢字に直しなさい。

(あ)ケンジ (い)喧しい (う)ダして  (え)ケネン (お)ジャマ

 

 

 

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