今なぜ「自己学習」か

自ら学ぶことの大切さは大昔から言われていることですが、
この時代にあって、その意味がもう一度問われるべきではないかと感じています。
歩楽來でも「自己学習」と寺子屋方式での指導スタイルを中心にして指導が行われていますが
このスタイルの方が、圧倒的に学習効果が上がることを実感しています。

以下に、東大の入試問題を模したオリジナル練習問題用論文を掲載しますので、
今なぜ「自己学習」なのかをもう一度考えてみましょう。

東大国語Ⅰ(5)120字論述用練習問題

 受験の季節が終わり春を迎えるたびに、次第にだが確実に変化している受験生の動態を振り返る。近年特に著しい傾向にあるのは「易きに流れる」ということだ。以前は東大をはじめとしたトップ大学を受験する受験生たちは自らの意思をもう少し貫いたように思う。その筋からの情報が「データに基づいて」まことしやかに流されると、本番直前で出願校を簡単に変えてしまう。例えば、東大の文科一類や二類を志望していた受験生たちが雪崩を打って、一橋大学の法学部や経済学部に出願変更をするというように。
 「情報リテラシー」などと言う言葉があるが、これだけ翻弄されるトップ大学志望の受験生たちを見ていると、「情報リテラシー」とは「スマホをうまく使える」とか、「ユーチューブで面白い動画を見つける能力」しか意味しないのではないかという錯覚にとらわれる。本来は判断する根拠を自分なりに求め、ロジックを組み立て、情報の正誤を見極めるということのはずなのだが。
「哲学の不在」「思想不在」などというのは口幅ったい。だが、「学ぶ」という行為はもともと情報を受け入れることとそれを主体化する(我が物とする)ことの両面をもって完結するものだったはずである。「受験勉強」は人間として学習する行為とどれだけ乖離してしまったのだろうか?
 「学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆し」とは二千五百年も前の言葉だが、「学ぶ」を「まねぶ」と理解すれば「情報の受け入れ」を指し、「思う」を「思想化・主体化」と理解することができよう。この一連に学習者の基本態度が凝縮されている。情報の受け入れ(Open)だけでは何も分かったことにはならず、思索にふけっている(Close)だけでは客観性を失い、間違えた方向にどんどん進んでしまうかもしれない。コンピューターを例にとれば、ダウンロード(受容)してもインストール(主体化)しなければ、機械は動かないというと理解が早いかもしれない。
 この視点から現代の受験生を見た時、先のような雪崩現象が語っているのは以下のことであろう。
 つまり、現代において「学びて思わざる」子どもたちが社会的に大量生産されているということだ。情報過多、受動性を助長する情報(TV・ビデオ・ゲームなど)や過度に便利になった衣食住など、そのような人間を生み出す社会構造・技術・文化は枚挙にいとまがない。そういう社会の中で無批判な受容訓練(鵜呑み丸覚え)を積んだ、「思う」の欠如した子どもたちが最高学府を目指して受験生となっているということだろう。日常的には、学校の定期テストではよい成績が取れるが、鵜呑み丸覚えでは対応できない、実力テストや入試になると得点が取れないという形でよく見かける姿だ。
 一方、割合は少ないが「思いて学ばざる」子どもたちもいる。つまり、外からの情報を適切に受け止めることなく、自己の世界に引きこもるという子どもたちだ。
繰り返しになるが、受容なしの主体化はなく、主体化を前提としない受容はありえない。とすれば、情報の受容とその主体化のプロセスには「批判的に検討する」という思考が必須となる。この「批判的に」というのと「否定的に」ということを混同してはならない。「批判的に」とは、その情報について「ほんとかな?」と考えたうえで、受け入れるかどうか、またはどのように受け入れるかを決めることだ。「否定的に」とは「ケッ、こんなもの!」と排除する態度=「学ばず」ということである。
核心はここにある。つまり、先に述べた二種類の生徒の姿はどちらも受容と主体化のための批判的検討能力を失った人間の姿であり、同じメダルの両面なのだ。
具体的に言うと「批判のフィルターを通す」ということを「否定」と同義にとらえて、相手の言うことに対してニコニコしながら従順かつ無批判に受け入れる ―往々にして面従腹背の場合が多いが― か、または、仏頂面をして全く受け付けないかのどちらかの態度しか知らない人間が増えているということだ。
 さらに、受容と主体化の分裂は単に学習の仕方にとどまらず、ストレス耐性の弱さともつながっていると思われる。つまり、批判的に物事を吟味し受け入れることができないと、いわれなき非難でもそのまま受け入れ、自らの思考をもとに跳ね返す力がない人間が出来上がってしまう。近年、受験直前期のプレッシャーに極端に弱く、本番の試験で全く実力を出せない生徒が多いという現象もこれと軌を一にすることだろう。
 問題は「受容を前提とした主体化(批判的検討)の能力」をいかに取り戻すかだ。
 結論的に申し上げると、「生徒が自らが学ぶ環境」の保障と「啐啄同時のアドバイス」で子どもたちを育てるということに尽きる。
 知的刺激としての情報を与えられたら、それをどう受け止めるかという自己学習の時間を持ち、納得したうえで主体化する、または、納得いかない場合は適切なアドバイスを受ける。当然ながら、指導者は余計なお説教を挟まずに、必要なものを過不足なく示す、または自身で調べる方法を提示することが求められる。
この繰り返しこそ、批判的検討能力を育てる。そこには、適切な知的刺激とアドバイスを与えてくれる良き指導者、良き文献が必要なことも論を待たない。この自己学習の中で育つ批判的検討能力はそのまま入試実践力と言い換えることもできるし、社会に出て困難な課題に直面した時の問題解決能力と言い換えても何ら問題ないだろう。
この国に未来があるとすれば、子どもたちの自己学習を支える良き指導者の育成こそが急務なのだ。

問 本文中「自己学習の中で育つ批判的検討能力はそのまま入試実践力と言い換えることもできる」とありますが、なぜそう言えるのか、本文全体の趣旨をふまえて120字以内で説明しなさい。